President Onlineより
「1543年種子島に漂着し鉄砲を伝えた」のはポルトガル人ではない
教科書で習う日本史のウラを知れ
「「維新の十傑」と呼ばれる10人の中にも龍馬の名前は入っていません。これはつまり何を意味するのか。坂本龍馬は明治維新ではたいした役割を果たしていなかったということです。ではなぜ龍馬がこれほど有名なのかといえば、司馬遼太郎さんが小説『竜馬がゆく』を書いたからです
維新において龍馬がどんな役割を果たしたのか、その功績はほとんどわかっていないのが、現在の歴史学者の共通認識です。実際、あらゆる史料を調べても、「維新の三傑」と呼ばれる西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の3人の誰ひとりとして、明治政府樹立後に坂本龍馬に言及していません。
龍馬が薩長同盟の仲立ちをし、明治維新を成功に導いた功績者であれば、ひと言くらいコメントしていてもいいはず。三傑は薩長出身だから、土佐出身の龍馬を褒めたくなかったという説もありますが、それならば同じ土佐出身の板垣退助が何か言葉を残しているはずですが、こちらも記録がないのです」
「たとえば、仏教の伝来。教科書では538年に百済から伝わったと習います。この知識だけがあっても何の役にも立たない。なぜ百済は仏教を日本に伝えたのかと疑問を持つことが大事です。実は仏教というのは当時、最新の「技術体系」だったのです。仏教を広めるには寺院の建築や法具、お経、衣服などをつくり、僧侶も育成しなければならない。百済がそのような貴重なものをなぜわざわざ日本に教えてくれたのか。
当時の朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の3国が争っていました。百済は両国に激しく攻められていた。538年は新羅に侵攻されて、まさに国が存続の危機にあり、日本に兵士の支援を求めたのです。その見返りとして最先端の技術体系を教えた。ここまで踏み込むことで、仏教伝来の意味が理解でき、納得できるのです」
「米国人のペリーが黒船で日本に来航したのは1853年です。教科書では捕鯨船の燃料や食料などの補給がその目的だったと習います。しかし、その頃の日本は江戸時代で200年超も鎖国をしていた。そこになぜ突然やって来たのか。当時の米国は中国市場をめぐって英国と争っていました。自国の商品を売るためです。競争力を高めるために米国は大西洋・インド洋経由ではなく、中国に最短距離で行くために太平洋航路を開く必要があった。日本に立ち寄って物資を補給し、上海や広東に行くのが最も便利で早かったので、日本に開国を迫ったわけです。
このように世界史の中で日本を見るときのキーワードになるのが「交易」です。人と人とが交流するのは、商売やバーター取引が基本だからです。交易の観点で考えると、歴史の疑問はほとんど答えが見つかります」
「鉄砲は1543年に種子島に漂着したポルトガル人が伝えたと教科書で習いますが、そのポルトガル人が乗っていた船は倭寇(海民の共和国)の頭領、王直の所有する船だったことがわかっています。「なぜポルトガル人が倭寇の船に?」と不思議に思いますよね。彼らはキリスト教の宣教師や商人たちで、船でアジアにやって来て、倭寇と遭遇した。
倭寇はポルトガル人が持っていた鉄砲に目をつけ、日本に売り込もうと目論んだのです。当時の日本は戦国時代ですから、最新の武器を喜んで買うはずだと。そこでポルトガル人に話を持ちかけ、日本に連れて行った。ポルトガル人には日本に鉄砲を売る理由がそれほどなかったし、日本への海路など知りません。鉄砲を伝えたのは、実は倭寇なのです」
出口 治明(でぐち・はるあき)
立命館アジア太平洋大学(APU)学長
1948年、三重県生まれ。京都大学法学部卒業後、日本生命に入社。2006年、ネットライフ企画(現・ライフネット生命)を設立、社長に就任。同社は12年に上場。18年から現職。